
「史跡 茶臼山 及 河底池」
ここは茶臼山の中腹なので、山頂へは左に見える石段を上がります。

戦国時代、ここには大塚城 (茶臼山砦や茶臼山陣城) があったそうです。
1546年 (天文15年) 細川晴元の家臣・山中又三郎を城主に築城以来
1615年の大坂夏の陣、真田信繁の陣城として使用されたのを最後に廃城。

先ほどの 「史跡 茶臼山 及 河底池」 の横に説明板がありました。

「茶臼山古戦場跡」 1615年(慶長20)年5月7日
紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が
陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の
松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃えと松平家の家紋のツマ
黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。
(大坂夏の陣 天王寺口の戦い)
数では劣る真田隊であったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り
徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康
の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃
を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって
奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある
安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。
― 真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由 ― 「薩摩旧記」

「大坂夏の陣」 天王寺口布陣図
左:徳川方 総兵力 155,000人 右:豊臣方 総兵力 55,000人
右上に、真紅に黄色銭が6つ描かれた “真田家” の 「六連銭 (六文銭)」
の旗印が描かれています。 旗印の六連銭は仏教の世界で言う六道銭の
ことで、三途の川の渡し賃のことだったそうです。