コロナ陽性のウガンダ選手団2人が、インド由来の「デルタ型」に感染。
成田空港で感染が確認されていたウガンダ選手団を受け入れた泉佐野市では、職員やバスの運転手ら7人が濃厚接触者と認定されています。
オリンピックを控え、新型コロナ感染を広めた水際対策の不備が心配です。
「京都迎賓館」参観(2015年8月11日 火曜日)した後、桂離宮に行くことが決まり、3か月後に同じメンバーで「桂離宮」へ行ってきました。
桂 離 宮 2015年11月12日(木)
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京都の西の郊外を流れる桂川の西岸、旧丹波街道に通じる桂川大橋を渡った北西に位置する桂離宮は、後陽成(ごようぜい)天皇の弟君・八条宮(はちじょうのみや)初代 智仁(としひと)親王により、1615年に宮家の別荘として創建されましたが、十二代 淑子内親王が亡くなられるとともに絶え、明治16年(1883年)宮内省所管となり「桂山荘」から「桂離宮」と称されることになりました。
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参観者の出入り門を通り、参観がスタートしました。
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土橋を渡って御幸門へ向かいます。
写真の左に見える屋根は「御舟屋(おふなや)」です。
御幸門(みゆきもん)
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最初の御幸門は 後水尾上皇の御幸を迎えるために設けられたが
現在の門は第七代家仁親王の時代に作られたそうです。
御幸門は、茅葺切妻屋根(かやぶききりつま)で柱と桁には太い
皮付き丸太(アベマキ)が使われ、門扉は割竹を簀子状に並んでます。
(アベマキはワインの栓に使われることもあるそうです。)
写真右下に見える四角い石は その上に御輿を置いたと言われ
「御輿石(オコシイシ)」と呼ばれていますが定かではありません。
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その先に御成門(表門)があります。
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御幸道(みゆきみち)は、御幸門から先ほど通った土橋への道です。
この道は青黒い小石をが敷き詰められ、やや中高に反りがつけられたことで
水はけがよくなるようにつくられていました。これは後で分かったのですが
先に見える土橋を渡って左に行けば、後書院の中門への道だったのです。
======= 御幸道の土橋手前を左折して外腰掛へ =======
二重枡形手水鉢 (にじゅうますがたちょうずばち)
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外腰掛の手前に背の低い石灯籠と、外枠に対して45度ずらして
方形の水穴があることから呼ばれています。
外腰掛 (そとこしかけ)
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外腰掛は松琴亭の待合所として使われたもので蘇鉄山に面して
間口三間の茅葺寄棟造で、内側は二間の腰掛がありました。
蘇鉄(ソテツ)山
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外腰掛の前庭として作庭された「蘇鉄山」の風景は
桂離宮の繊細なお庭としては、異質な感じに思いますが・・・
当時は蘇鉄のもつ南国的な雰囲気が珍重されたそうです。
※ 毎夜「堺に帰りたい」とすすり泣く怪しげな声が聞こえる「ソテツ」の
お話がありますので、いつかご紹介させて頂きますね。
京都・桂離宮 参観 ②「天の橋立・松琴亭」へ続きます。
成田空港で感染が確認されていたウガンダ選手団を受け入れた泉佐野市では、職員やバスの運転手ら7人が濃厚接触者と認定されています。
オリンピックを控え、新型コロナ感染を広めた水際対策の不備が心配です。
「京都迎賓館」参観(2015年8月11日 火曜日)した後、桂離宮に行くことが決まり、3か月後に同じメンバーで「桂離宮」へ行ってきました。
桂 離 宮 2015年11月12日(木)

京都の西の郊外を流れる桂川の西岸、旧丹波街道に通じる桂川大橋を渡った北西に位置する桂離宮は、後陽成(ごようぜい)天皇の弟君・八条宮(はちじょうのみや)初代 智仁(としひと)親王により、1615年に宮家の別荘として創建されましたが、十二代 淑子内親王が亡くなられるとともに絶え、明治16年(1883年)宮内省所管となり「桂山荘」から「桂離宮」と称されることになりました。

参観者の出入り門を通り、参観がスタートしました。

土橋を渡って御幸門へ向かいます。
写真の左に見える屋根は「御舟屋(おふなや)」です。
御幸門(みゆきもん)

最初の御幸門は 後水尾上皇の御幸を迎えるために設けられたが
現在の門は第七代家仁親王の時代に作られたそうです。
御幸門は、茅葺切妻屋根(かやぶききりつま)で柱と桁には太い
皮付き丸太(アベマキ)が使われ、門扉は割竹を簀子状に並んでます。
(アベマキはワインの栓に使われることもあるそうです。)
写真右下に見える四角い石は その上に御輿を置いたと言われ
「御輿石(オコシイシ)」と呼ばれていますが定かではありません。

その先に御成門(表門)があります。

御幸道(みゆきみち)は、御幸門から先ほど通った土橋への道です。
この道は青黒い小石をが敷き詰められ、やや中高に反りがつけられたことで
水はけがよくなるようにつくられていました。これは後で分かったのですが
先に見える土橋を渡って左に行けば、後書院の中門への道だったのです。
======= 御幸道の土橋手前を左折して外腰掛へ =======
二重枡形手水鉢 (にじゅうますがたちょうずばち)

外腰掛の手前に背の低い石灯籠と、外枠に対して45度ずらして
方形の水穴があることから呼ばれています。
外腰掛 (そとこしかけ)

外腰掛は松琴亭の待合所として使われたもので蘇鉄山に面して
間口三間の茅葺寄棟造で、内側は二間の腰掛がありました。
蘇鉄(ソテツ)山

外腰掛の前庭として作庭された「蘇鉄山」の風景は
桂離宮の繊細なお庭としては、異質な感じに思いますが・・・
当時は蘇鉄のもつ南国的な雰囲気が珍重されたそうです。
※ 毎夜「堺に帰りたい」とすすり泣く怪しげな声が聞こえる「ソテツ」の
お話がありますので、いつかご紹介させて頂きますね。
京都・桂離宮 参観 ②「天の橋立・松琴亭」へ続きます。