
しろあと歴史館の文化財ボランティアスタッフだった時の仲間、 とっつあんさん から 「高山右近の高槻城の発掘報告 本日の産経新聞の朝刊の記事です。
現地説明会は明日(3日)10時から12時の模様」の情報メールがありました。

ここは市民グランドで、ジャズストリートや食の文化祭などが開催されている
キリシタン大名で知られる高山右近が(1573~1585)城主だった高槻城跡です。
高槻城は、大阪夏の陣後の元和(げんな)三年(1617)に徳川幕府が修築し、明治七年(1875)の鉄道建設に伴って破却され、その後も工兵隊駐屯などに伴う大規模な改変で城址は大きく変貌しました。

雨水貯留施設建設に先立つ高槻城二の丸跡の発掘調査(約2,600㎡ )です。

調査は平成28年11年1日~(現在も調査継続中)
調査の結果、元和修築にかかる二の丸の北内堀及び「不明門(あかずのもん)」の基礎部分を検出し、築城用資材を搬入する仮設の土橋を2ヵ所で確認しました。

右奥:戦国時代の大堀 、左奥:戦国時代の大堀、左前:大溝の拡張部
東西方向の内堀は長さ75メートルにわたって検出。現存幅約18メートル、現存深約2.5メートル、底面約12メートルを測り、両岸の斜面は30~50度の角度で立ち上がっています。堀底から1.6~1.8メートルの高さで、斜面に横木を並べ杭で固定した護岸施設が確認。

横木が並ぶ所に石垣石があります。

北側からみた高槻城絵図に描かれていない築城用の「木橋の橋脚」
(手前の石が、枕木が並んでいる所にある石垣石です。)
三の丸から不明門へ通じる木橋の橋脚が検出したところです。
外側の橋脚は1は3対6本、内側の橋脚2は4対15本の計21本が検出されました。

これは、不明門の石垣基礎部分を掘側から見たところです。
高槻城の石垣は、堀底を箱形に掘り下げて底に胴木を据え、その上に花崗岩の石材で石垣を築き、その外側を根固め石でおさえています。また根固め石の外側に杭を密に打ち軟弱な地盤の工夫がされています。

平成22年に調査された時の写真です。

東西に延びる発掘調査の、西側の説明から東側の説明に移動します。

東西に延びる戦国時代の大堀と、大溝の拡張部分がみえています。

北側からみた高槻城絵図に描かれていない築城用の「土橋」
大堀の突出部とその延長上の大溝埋土上面では、外辺に沿わせて川原石を長手に据え、あるいは杭と横木で押さえて、俵土嚢の小口を揃えて積み上げ、間に土を敷いて幅3.5メートルの通路です。
高槻城絵図に描かれていない橋脚など2ヵ所の間に不明門がおさまることから、不明門の石材や木材などの資材搬入用の仮設通路と考えられています。

このようにして俵土嚢が幾つも並べられていたそうです。

何度にも分けて説明されてますが、まだ途切れることなく来られています。
6月1日に西日本を襲ったゲリラ豪雨で、かなり水が溜まり説明会を前にして
心配したそうですが、排水して今日の説明会を迎えることができたそうです。
お疲れさまです・・・そしてありがとうございます。(*^o^)/\(^-^*)