
2階に上がると板の間があり、次の部屋は女中部屋でした。
女中部屋にも貴重な本が並んで展示されています。

ここでは西洋医学の研究をはじめとして、種痘事業やコレラ治療など
大きな医学史上の業績が生まれました。

主な蘭学塾、江戸・京都・大阪

1846年に設立された除痘館は1858年には
江戸幕府が公認した最初の種痘所となりました。

女中部屋の次の間は「ヅーフ部屋」」です。
適塾における教育の中心は蘭書の会読でしたが、この予習のために塾生が使用した辞書がヅーフ辞書(長崎出身のオランダ商館長ヅーフがハルマの蘭仏辞書に拠って作成した蘭和辞書)であり、当時は極めて貴重で適塾にも一部しかなく塾生はヅーフ部屋と呼ばれる部屋につめかけ奪い合って使用した。
福沢諭吉は自ら述懐して、凡そ勉強ということについては、このうえにしようもないほど勉強したといっている。

ヅーフ部屋の先にあるのは、塾生たちの大部屋です。

適塾は全国から駆けつけた塾生にあふれ、談論風発の気風はその後の明治維新の激動の中、日本の近代化に大きく貢献した多くの人材を輩出しています。
塾生には福沢諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲などをはじめ明治を切り開いた1,000人近い塾生が育ちました。
1869年に明治新政府は、洪庵の二男・惟準(これよし)や洪庵の弟子達、およびオランダ人教師・ボードウィンを迎えて大阪仮病院と大阪医学校を開設しました。大阪医学校は幾多の変遷を経て1915年に大阪府立医科大学になり、大阪帝国大学医学部へと発展していきました。
史跡公園

適塾のすぐ西側の史跡公園に「緒方洪庵」の銅座があります。
わが国唯一の蘭学塾の遺構
大阪大学が、この貴重な文化遺産を保護すべく、適塾の東西にあるビルを撤去し、大阪市、財界などのご協力を得て昭和61年に完成しました。

1838年(天保9)から1862年(文久2)の25年間大阪・船場にあって塾を開き若き人々の教育にも多大適塾の塾主は緒方洪庵(1810~1863)である。当代きっての蘭方の医者、学者であって、教育者でもありました。
その力量を知る幕府は1862年(文久2)、江戸に召しだし奥医師とすると同時に西洋医学所の頭取としたのである。洪庵不在の時期も義弟や子息、門下生達は塾を守り、さらに分塾をするほどに発展したが、明治新政府の教育制度の整備と共に発展解消し、大阪医学校、府立医科大学、さらには大阪大学へと発展し、今日にいたっています。

史実には、緒方洪庵は長崎から伝来した治療法をまとめ、和訳した『扶氏経験遺訓』を無料で医師に配布するなど、その情熱と正義感をひたすらに傾け、治療にあたっていたそうです。