大阪・吹田市に「旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)」があります。
仙洞御料庄屋を勤めた、伝統と茶の湯の精神を感じるお屋敷の広いお庭には、名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られ、当主の号に因み名づけられた茶室「積翠庵」があります。そして初めて見る「四腰掛」がありました。
「四腰掛(よつこしかけ)」とは
桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われ、 どの腰掛に座っても他の腰掛に座っている人と、正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛です。
旧西尾家のお雛さま 2009年06月17日
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旧西尾家は、間口が二間半もある大きな門ですが
当初は立派な長屋門だったそうです。
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玄関棟は極めて格式高く造られた建物で
特別の日や賓客を迎えるときに使われていたそうです。
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お座敷に上がると、お屋根のある立派なお雛さまが
左奥の部屋にも、お雛様が飾られていました。
大きなお内裏さまとお雛さまも、広い床の間では小さく見えます。
この部屋に入ると、ボランティアガイドさんから
「作曲家・指揮者の 喜志康一氏が、この部屋で産声をあげました。」の
説明が・・・でも、喜志康一氏のことが分からないので調べました。
●喜志 康一(きし こういち) 1909年(明治42)~1937年(昭和12)
旧西尾家住宅は、喜志 康一氏のお母さまの実家でした。
芦屋市に転居後、甲南小学校に入学します。
当時の芦屋には、ヨーロッパやロシアの芸術家が多く滞在していたことから
文化的な空気の中で育つ過程で、12歳の頃、神戸でヴァイオリンと出会い
甲南高校を経て、17歳でスイスへヴァイオリン留学。
やがて作曲や指揮者としての才能にも目覚め
25歳で、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮しましたが
1937年(昭和12)に28歳という若さで病死しています。
※喜志康一記念室が、甲南高等学校・中学校内にあるそうです。
〒659-0096 兵庫県芦屋市山手町31-3
仙洞御料庄屋を勤めた、伝統と茶の湯の精神を感じるお屋敷の広いお庭には、名席「燕庵」と「雲脚席」を模して造られ、当主の号に因み名づけられた茶室「積翠庵」があります。そして初めて見る「四腰掛」がありました。
「四腰掛(よつこしかけ)」とは
桂離宮にある卍亭の写しとほぼ同じと言われ、 どの腰掛に座っても他の腰掛に座っている人と、正面から顔を合わすことがないように卍形に配された腰掛です。
旧西尾家のお雛さま 2009年06月17日

旧西尾家は、間口が二間半もある大きな門ですが
当初は立派な長屋門だったそうです。

玄関棟は極めて格式高く造られた建物で
特別の日や賓客を迎えるときに使われていたそうです。

お座敷に上がると、お屋根のある立派なお雛さまが

左奥の部屋にも、お雛様が飾られていました。

大きなお内裏さまとお雛さまも、広い床の間では小さく見えます。

この部屋に入ると、ボランティアガイドさんから
「作曲家・指揮者の 喜志康一氏が、この部屋で産声をあげました。」の
説明が・・・でも、喜志康一氏のことが分からないので調べました。
●喜志 康一(きし こういち) 1909年(明治42)~1937年(昭和12)
旧西尾家住宅は、喜志 康一氏のお母さまの実家でした。
芦屋市に転居後、甲南小学校に入学します。
当時の芦屋には、ヨーロッパやロシアの芸術家が多く滞在していたことから
文化的な空気の中で育つ過程で、12歳の頃、神戸でヴァイオリンと出会い
甲南高校を経て、17歳でスイスへヴァイオリン留学。
やがて作曲や指揮者としての才能にも目覚め
25歳で、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を指揮しましたが
1937年(昭和12)に28歳という若さで病死しています。
※喜志康一記念室が、甲南高等学校・中学校内にあるそうです。
〒659-0096 兵庫県芦屋市山手町31-3