京都市埋蔵文化財研究所が5月12日に、史料も数少ない「幻の城」の遺構が確認されたと発表がありました! それは京都仙洞御所内の発掘調査で、豊臣秀吉が生涯最後に築いた「京都新城」の本丸を囲う石垣や堀が見つかったのです。
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石垣は自然石を積み上げた野面積みで、南北8m分と、下半分の3~4段が残ってましたが、上半分が意図的に壊され、当時の高さは2.4mほどあったそうです。
(写真はお借りしました。)
石垣と同規模の堀も見つかり、多量の土や小石で埋められていました。埋土には石垣を落とした転落石が含まれ、石垣も埋め立てと同じころに壊されていました。だれが破壊したかは不明ですが、関ケ原合戦が迫り、内裏直近の城郭を使われるのを防ごうとしたとみられています。
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秀吉好みの桐や菊の文様の金箔瓦も出土し、京都新城の遺構と判断されました。
(写真はお借りしました。)
●土御門第跡(土御門殿跡)
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京都新城は天皇が住んだ内裏の南東側に築かれ、1597年に完成しました。
32万㎡の敷地を占め、翌年に秀吉が死去すると正室の高台院(北政所)の屋敷になり、取り壊された後は江戸時代に仙洞御所・大宮御所が造営されました。
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現在の京都御苑・仙洞御所の東北部一帯は、平安時代の摂政・太政大臣だった藤原道長(ふじわらのみちなが)の邸宅跡が土御門第跡(土御門殿跡)でした。
道長が「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」で
知られる有名な「望月の歌」を詠んだのもこの土御門第(土御門殿)です。
●仙洞御所 2016年4月11日
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京都迎賓館・桂離宮を参観してきた友人たちと一緒に
仙洞御所を参観したことがあります。
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仙洞御所は、京都御所の東南の白い築地堀に囲まれた
広さ約9万1600平方メートルの敷地に仙洞御所と大宮御所があります。
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如意岳の大文字を借景に建つ「大宮御所表門」です。
仙洞御所参観は、この大宮御所表門が参観者出入口になっています。
脇門をもつ重厚な棟門形式で、入口では警察の方が待機されています。
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表門を入ると、玉砂利の敷き詰められた広場の先に「向唐破風屋根」が
美しい,大宮御所常御殿(つねごてん)の車寄せが見えました。
唐破風(からはふ)屋根の背後に、銅板の切妻屋根が二重に雁行し
優美な曲線を描いた「大宮御所」は、東福門院として造営されました。
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現存する大宮御所は、嘉永七年(1854)に焼失した後、慶応三年(1867)に英照皇太后(孝明天皇皇后)の御所として、新たに造営されたもので、約100メートル四方の敷地に常御殿・車寄・御文庫・庭園があります。
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大政奉還に伴って、明治五年(1872)に皇太后が東京に移られ、大宮御所は女院御所としての役割を終えましたが、大正時代に内部を洋風に改装して現在も天皇皇后両陛下や皇太子同妃殿下が来られた際に使用されているそうです。
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大宮御所御常御殿の南庭です。
車寄の道を塀沿いに進むと小門があり、常御殿の南庭に出ます。
常御殿には「松竹梅の庭」と呼ばれる南庭があって
庭に降りる階段の左右に、白梅・紅梅が植えられていました。
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大宮御所内庭の東側から南に向かって築地堀が長く伸びていたところに
仙洞御所の庭園へと続く潜り門がありくぐると・・・
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その先は、仙洞御所の北池が広がっていました。
北池はもともと大宮御所の庭園だったが、延享(えんきょう)四年(1747)に大宮御所の北池と仙洞御所の南池が堀割で結ばれ、池と庭園が一つになったそうです。
ここが、幻の城「京都新城」があったと言われる「大宮御所と仙洞御所」でした。
●付録
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土御門第の近くに、紫式部の邸宅跡の廬山寺があります。
藤原道長は、紫式部の「源氏物語」執筆に支援をしていたと言われ
紫式部は、藤原道長の娘の家庭教師でもあったそうです。

石垣は自然石を積み上げた野面積みで、南北8m分と、下半分の3~4段が残ってましたが、上半分が意図的に壊され、当時の高さは2.4mほどあったそうです。
(写真はお借りしました。)
石垣と同規模の堀も見つかり、多量の土や小石で埋められていました。埋土には石垣を落とした転落石が含まれ、石垣も埋め立てと同じころに壊されていました。だれが破壊したかは不明ですが、関ケ原合戦が迫り、内裏直近の城郭を使われるのを防ごうとしたとみられています。

秀吉好みの桐や菊の文様の金箔瓦も出土し、京都新城の遺構と判断されました。
(写真はお借りしました。)
●土御門第跡(土御門殿跡)

京都新城は天皇が住んだ内裏の南東側に築かれ、1597年に完成しました。
32万㎡の敷地を占め、翌年に秀吉が死去すると正室の高台院(北政所)の屋敷になり、取り壊された後は江戸時代に仙洞御所・大宮御所が造営されました。

現在の京都御苑・仙洞御所の東北部一帯は、平安時代の摂政・太政大臣だった藤原道長(ふじわらのみちなが)の邸宅跡が土御門第跡(土御門殿跡)でした。
道長が「この世をば我が世とぞ思ふ 望月の欠けたることのなしと思へば」で
知られる有名な「望月の歌」を詠んだのもこの土御門第(土御門殿)です。
●仙洞御所 2016年4月11日

京都迎賓館・桂離宮を参観してきた友人たちと一緒に
仙洞御所を参観したことがあります。

仙洞御所は、京都御所の東南の白い築地堀に囲まれた
広さ約9万1600平方メートルの敷地に仙洞御所と大宮御所があります。

如意岳の大文字を借景に建つ「大宮御所表門」です。
仙洞御所参観は、この大宮御所表門が参観者出入口になっています。
脇門をもつ重厚な棟門形式で、入口では警察の方が待機されています。

表門を入ると、玉砂利の敷き詰められた広場の先に「向唐破風屋根」が
美しい,大宮御所常御殿(つねごてん)の車寄せが見えました。
唐破風(からはふ)屋根の背後に、銅板の切妻屋根が二重に雁行し
優美な曲線を描いた「大宮御所」は、東福門院として造営されました。

現存する大宮御所は、嘉永七年(1854)に焼失した後、慶応三年(1867)に英照皇太后(孝明天皇皇后)の御所として、新たに造営されたもので、約100メートル四方の敷地に常御殿・車寄・御文庫・庭園があります。

大政奉還に伴って、明治五年(1872)に皇太后が東京に移られ、大宮御所は女院御所としての役割を終えましたが、大正時代に内部を洋風に改装して現在も天皇皇后両陛下や皇太子同妃殿下が来られた際に使用されているそうです。

大宮御所御常御殿の南庭です。
車寄の道を塀沿いに進むと小門があり、常御殿の南庭に出ます。
常御殿には「松竹梅の庭」と呼ばれる南庭があって
庭に降りる階段の左右に、白梅・紅梅が植えられていました。

大宮御所内庭の東側から南に向かって築地堀が長く伸びていたところに
仙洞御所の庭園へと続く潜り門がありくぐると・・・

その先は、仙洞御所の北池が広がっていました。
北池はもともと大宮御所の庭園だったが、延享(えんきょう)四年(1747)に大宮御所の北池と仙洞御所の南池が堀割で結ばれ、池と庭園が一つになったそうです。
ここが、幻の城「京都新城」があったと言われる「大宮御所と仙洞御所」でした。
●付録

土御門第の近くに、紫式部の邸宅跡の廬山寺があります。
藤原道長は、紫式部の「源氏物語」執筆に支援をしていたと言われ
紫式部は、藤原道長の娘の家庭教師でもあったそうです。