京都・平安神宮を通って「白川疎水」を歩いてきました・・・
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琵琶湖疎水と合流した白川は、大鳥居前の慶流橋の先で分流しています。
現在地から、南西(左下)に向かって白川沿いに歩きます。
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橋の袂に「白川と疏水を称える詩」 山田正三氏の詩碑
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京都には数えきれないほど来てますが・・・
この道を初めて歩いたときに、京都だな~と思いました。
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夏の暑い時に、ご婦人が疎水に足を投げ出し読書されていたのが
とても印象的だったので、今もよく覚えています。
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京都の夏はむし暑いですが・・・
疎水沿いを歩くと涼しく感じます。
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写真左に見える建物は「並河靖之七宝記念館」です。
並河靖之七宝記念館は、白川沿いに建つ虫籠窓、駒寄せ、一文字瓦を伝える明治時代の町家です。明治期から昭和初期にかけて活躍した日本を代表する七宝家であり帝室技芸員にも任命された並河靖之の自宅兼工房です。
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上写真のところで疎水沿いはとぎれますが・・・
三条通りを渡ると、また疎水沿いの道が続きます。
明智光秀の塚
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この時に、友人から「明智光秀の塚」を教えて貰いましたが
その数年後に、テレビ番組で紹介されていました。
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説明板には
天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため
この地に首を埋めたと伝えられている。 京都市
テレビドラマの撮影によく使われる「一本橋」
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この橋は、比叡山の阿闍梨(あじゃり)修行で千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町に入洛するとき最初に渡る橋であり、行者橋とも阿闍梨橋ともいわれる。
ここまでは、2016年4月のブログの一部ですが
テレビで「若一調査 三条大橋と京都白川の一本橋」を見ていると
白川疎水の一本橋に、5つの名前があることを知りました。
3つは知っていますが、後の2つが気になり見ていると・・・
①「一本橋」
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地元で利用される、 通称「一本橋」。
②「古川町橋」
古川町という地名からつけられた行政上の正式名称。
道路管理する以前から架かっていたので
いつ誰が架けたのか不明ですが
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でも、江戸の1780年代の書物に出ていました。
当時は木製で江戸の弘化年間に石の端に架け替えられたそうです。
③「阿闍梨橋」
千日回峰行で、比叡山山中・京都の寺院を礼拝しながら
地球1周分を7年間・1000日をかけて歩く比叡山延暦寺の荒行で通る。
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8年ぶり戦後14人目の千日回峰行の達成者
叡南浩元師(当時43)
④「行者橋」
千日の行を終わられた行者様が、京都へ挨拶に来られる時に
一番最初に渡る橋と言われ、行者橋という通称がついている。
⑤「タヌキ橋」
白川に、その昔「たぬき」が橋の下に棲んでいたことからですが
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橋の目の前に、農業の神さまがお祭りされていて
そのお使いが「たぬきさん」でした。
余談ですが「わかいち(若一)」と入力すると「若い血」と変換され![]()
一本橋に何故5つの名前があるのか、よく分かりました。
コロナウイルスが収束したら、また白川疎水を歩きたいです。

琵琶湖疎水と合流した白川は、大鳥居前の慶流橋の先で分流しています。
現在地から、南西(左下)に向かって白川沿いに歩きます。

橋の袂に「白川と疏水を称える詩」 山田正三氏の詩碑

京都には数えきれないほど来てますが・・・
この道を初めて歩いたときに、京都だな~と思いました。

夏の暑い時に、ご婦人が疎水に足を投げ出し読書されていたのが
とても印象的だったので、今もよく覚えています。

京都の夏はむし暑いですが・・・
疎水沿いを歩くと涼しく感じます。

写真左に見える建物は「並河靖之七宝記念館」です。
並河靖之七宝記念館は、白川沿いに建つ虫籠窓、駒寄せ、一文字瓦を伝える明治時代の町家です。明治期から昭和初期にかけて活躍した日本を代表する七宝家であり帝室技芸員にも任命された並河靖之の自宅兼工房です。

上写真のところで疎水沿いはとぎれますが・・・
三条通りを渡ると、また疎水沿いの道が続きます。
明智光秀の塚

この時に、友人から「明智光秀の塚」を教えて貰いましたが
その数年後に、テレビ番組で紹介されていました。

説明板には
天正10年(1582年)、本能寺にいた主君の織田信長を急襲した明智光秀は、すぐ後の山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、近江の坂本城へ逃れる途中、小栗栖の竹藪で農民に襲われ自刃、最後を遂げたと言われる。
家来が、光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため
この地に首を埋めたと伝えられている。 京都市
テレビドラマの撮影によく使われる「一本橋」

この橋は、比叡山の阿闍梨(あじゃり)修行で千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)を終えた行者が、粟田口の尊勝院の元三大師に報告し、京の町に入洛するとき最初に渡る橋であり、行者橋とも阿闍梨橋ともいわれる。
ここまでは、2016年4月のブログの一部ですが
テレビで「若一調査 三条大橋と京都白川の一本橋」を見ていると
白川疎水の一本橋に、5つの名前があることを知りました。
3つは知っていますが、後の2つが気になり見ていると・・・
①「一本橋」

地元で利用される、 通称「一本橋」。
②「古川町橋」
古川町という地名からつけられた行政上の正式名称。
道路管理する以前から架かっていたので
いつ誰が架けたのか不明ですが

でも、江戸の1780年代の書物に出ていました。
当時は木製で江戸の弘化年間に石の端に架け替えられたそうです。
③「阿闍梨橋」
千日回峰行で、比叡山山中・京都の寺院を礼拝しながら
地球1周分を7年間・1000日をかけて歩く比叡山延暦寺の荒行で通る。

8年ぶり戦後14人目の千日回峰行の達成者
叡南浩元師(当時43)
④「行者橋」
千日の行を終わられた行者様が、京都へ挨拶に来られる時に
一番最初に渡る橋と言われ、行者橋という通称がついている。
⑤「タヌキ橋」
白川に、その昔「たぬき」が橋の下に棲んでいたことからですが

橋の目の前に、農業の神さまがお祭りされていて
そのお使いが「たぬきさん」でした。
余談ですが「わかいち(若一)」と入力すると「若い血」と変換され

一本橋に何故5つの名前があるのか、よく分かりました。
コロナウイルスが収束したら、また白川疎水を歩きたいです。