「京の冬の旅」へ行ったのは1月15日(土)ですが、更新が滞り・・・
京都・両足院④「池泉庭園に建つ茶室 水月亭と臨池亭」の続きです。
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建仁寺・正伝 永源院へ向かうには
狛虎とムカデの「両足院」にお別れして
建仁寺さんの門を後にして、花見小路道に出ます。
花見小路道の最初の道を左(西方向)に行くと
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右側の角に案内板があり「建仁寺・正伝 永源院」は
北方向に行きますが、建仁寺の塔頭寺院の一つです。
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地図で見ると、このような位置にあります。
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永源寺は、織田信長の弟(長益)で大名茶人として
名高い織田有楽斎という号を使っていた菩提所です。
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長益は、信長の死後は剃髪し千利休に師事して茶道の宗匠になり、晩年は正伝院を再興し、茶道三昧の生活を送り、元和7年(1621)に75歳で亡くなりました。
そして、2022年は有楽斎の没後400年という記念の年でした。
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開山時は「正伝院」と「永源庵」の二ヶ寺でしたが、「永源庵」は細川家の始祖細川頼有以後、八代の菩提寺であり数多くの菩提寺の中最も大切な寺でした。
廃仏毀釈運動の時に「永源」の名が消えることを憂いだ細川侯爵が、「永源」の名を残すことを希望され、明治時代に「正伝永源院」になりました。
門を入り左の門を入って行くと、左に織田有楽斎のお墓があります。
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墓地の間を通り過ぎ、中へ入っていくと
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左にお庭があり、廊下を進んで行くと右の部屋に
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第79代内閣総理大臣 細川護熙氏揮毫による襖絵が奉納。
永源庵は無涯仁浩(建仁第39世 1294〜1359)が開山。
当時の備後守護であった細川頼有公が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師壇の関係ができました。
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以後、細川家が同門住持に対する帰依は深まり1372年、永源庵はここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の庇護は明治迄続きました。
現在の客殿は細川三斎公により再建され、その時の住持は細川家より出家した「九岩中達(建仁第300世)」でした。
京都・両足院④「池泉庭園に建つ茶室 水月亭と臨池亭」の続きです。

建仁寺・正伝 永源院へ向かうには
狛虎とムカデの「両足院」にお別れして
建仁寺さんの門を後にして、花見小路道に出ます。
花見小路道の最初の道を左(西方向)に行くと

右側の角に案内板があり「建仁寺・正伝 永源院」は
北方向に行きますが、建仁寺の塔頭寺院の一つです。

地図で見ると、このような位置にあります。

永源寺は、織田信長の弟(長益)で大名茶人として
名高い織田有楽斎という号を使っていた菩提所です。

長益は、信長の死後は剃髪し千利休に師事して茶道の宗匠になり、晩年は正伝院を再興し、茶道三昧の生活を送り、元和7年(1621)に75歳で亡くなりました。
そして、2022年は有楽斎の没後400年という記念の年でした。

開山時は「正伝院」と「永源庵」の二ヶ寺でしたが、「永源庵」は細川家の始祖細川頼有以後、八代の菩提寺であり数多くの菩提寺の中最も大切な寺でした。
廃仏毀釈運動の時に「永源」の名が消えることを憂いだ細川侯爵が、「永源」の名を残すことを希望され、明治時代に「正伝永源院」になりました。
門を入り左の門を入って行くと、左に織田有楽斎のお墓があります。

墓地の間を通り過ぎ、中へ入っていくと

左にお庭があり、廊下を進んで行くと右の部屋に

第79代内閣総理大臣 細川護熙氏揮毫による襖絵が奉納。
永源庵は無涯仁浩(建仁第39世 1294〜1359)が開山。
当時の備後守護であった細川頼有公が同庵の門前で無涯に会い馬上から門法したことが縁で師壇の関係ができました。

以後、細川家が同門住持に対する帰依は深まり1372年、永源庵はここで建仁寺塔頭に列し、以後細川家の庇護は明治迄続きました。
現在の客殿は細川三斎公により再建され、その時の住持は細川家より出家した「九岩中達(建仁第300世)」でした。