名水百選に選ばれた離宮の水が頂ける「水無瀬神宮」の続き・・・
水無瀬神宮から、JR島本駅に向かって西国街道を歩いています。
西国街道(島本町)のマンホール蓋
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水無瀬渓谷と飛び交う蛍、町の花ヤマブキと町の木クスノキ
そして、町のマスコットキャラクター「みづまろくん」です。
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JR島本駅が近くなり、駅の手前に公園がありました。
駅まで公園の中を通っていくと碑があり説明板を見ると・・・
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その碑は「明治天皇御製碑」で
書は、明治天皇を慕い殉死した「東郷平八郎海軍元帥」でした。
この公園には、まだまだ他にも何かありそうなので
ワクワクして奥へ行くと知らなかったことがいっぱいありました。
国指定史跡 櫻井驛跡 (楠木正成伝承地)
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所 在 地 大阪府三島郡島本町桜井一丁目
指定年月日 大正一〇年三月三日
指定年面積 三九七二 ㎡
奈良時代のはじめ、平城宮と各地を結ぶ交通路を整備するために「駅(うまや)《駅家》」が設置された駅の一つに「摂津国嶋上郡大原野駅(せっつくにしまがみのこおりおおはらのうまや」が続日本記に記されており、これが櫻井駅のことを指すものと考えられている。
駅とは、大化改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配置した役所のことで、30里(当時の1里は約530mで、30里は約16km)ごとに設けられた。京と山陽道をつなぐ道は西国街道と呼ばれ、古来栄えた街道筋であるが、櫻井駅の実態についてはよく分かっていない。
しかし、延元(えんげん)元年(1336)足利尊氏の大軍を迎え撃つために京都を発った楠木正成が、櫻井駅で長子の正行に遺訓を残して河内へと引き返らせたことが太平記に記され、櫻井駅は「楠公父子訣別の場」として広く世に知られるようになった。 平成21年3月 島本町教育委員会
楠公父子訣別の所 碑
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櫻井駅は、馬を配置した役所だけではなかったのです。
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題字は、乃木希典(のぎ まれすけ)大将です。
建武2年11月(1336年1月)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が建武政権を離脱したことを受け、「延元の乱」が勃発しました。その後、南朝方が足利軍に勝利しましたが、建武2年11月(1336年1月)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が建武政権を離脱したことを受け「延元の乱」が勃発しました。
この足利軍を迎え討つため、西へと向かった南朝方の楠木正成(くすのき・まさしげ)が、長子の正行(まさつら)に遺訓を残して河内へ引き返らせた所でした。
楠公父子子別れの石像
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台座の「滅私奉公」の題字は、公爵 近衛文麿の書です。
この足利軍を迎え討つため、西へと向かった南朝方の楠木正成は、ここ櫻井駅で嫡男の正行(まさつら)と別れたと太平記に記されています。
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初めは「楠公父子子別れ」の銅像だったのですが
戦争への協力で、銅像がコンクリートになったのでした。
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「櫻井驛跡公園」に移され
現在の像は平成16年に有志より寄贈されたものでした。
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櫻井驛の名前は知っていましたが、馬を配置した役所とは知らず
櫻井驛が島本駅に名前が変わっただけだと思っていました。
歩いて来た櫻井驛跡公園が、西国街道に馬を配置した役所だと知り
今日のハイキングは、歴史クラブに参加しているようにも思えました。
JR島本駅
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マンボウで不参加していたハイキングですが
参加された皆さんは、コロナを吹っ飛ばすほどのお元気でした。
行きたかった「背割堤のさくら」を見ることができて (^^♪
大阪にあった唯一の水無瀬神宮では、全国名水百選のお水も頂きました。
そして歴史に残る「馬」を知ることができた「櫻井驛跡公園」でした。
水無瀬神宮から、JR島本駅に向かって西国街道を歩いています。
西国街道(島本町)のマンホール蓋

水無瀬渓谷と飛び交う蛍、町の花ヤマブキと町の木クスノキ
そして、町のマスコットキャラクター「みづまろくん」です。

JR島本駅が近くなり、駅の手前に公園がありました。
駅まで公園の中を通っていくと碑があり説明板を見ると・・・

その碑は「明治天皇御製碑」で
書は、明治天皇を慕い殉死した「東郷平八郎海軍元帥」でした。
この公園には、まだまだ他にも何かありそうなので
ワクワクして奥へ行くと知らなかったことがいっぱいありました。
国指定史跡 櫻井驛跡 (楠木正成伝承地)

所 在 地 大阪府三島郡島本町桜井一丁目
指定年月日 大正一〇年三月三日
指定年面積 三九七二 ㎡
奈良時代のはじめ、平城宮と各地を結ぶ交通路を整備するために「駅(うまや)《駅家》」が設置された駅の一つに「摂津国嶋上郡大原野駅(せっつくにしまがみのこおりおおはらのうまや」が続日本記に記されており、これが櫻井駅のことを指すものと考えられている。
駅とは、大化改新以降、幹線道路に中央と地方の情報を伝達するために馬を配置した役所のことで、30里(当時の1里は約530mで、30里は約16km)ごとに設けられた。京と山陽道をつなぐ道は西国街道と呼ばれ、古来栄えた街道筋であるが、櫻井駅の実態についてはよく分かっていない。
しかし、延元(えんげん)元年(1336)足利尊氏の大軍を迎え撃つために京都を発った楠木正成が、櫻井駅で長子の正行に遺訓を残して河内へと引き返らせたことが太平記に記され、櫻井駅は「楠公父子訣別の場」として広く世に知られるようになった。 平成21年3月 島本町教育委員会
楠公父子訣別の所 碑

櫻井駅は、馬を配置した役所だけではなかったのです。

題字は、乃木希典(のぎ まれすけ)大将です。
建武2年11月(1336年1月)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が建武政権を離脱したことを受け、「延元の乱」が勃発しました。その後、南朝方が足利軍に勝利しましたが、建武2年11月(1336年1月)足利尊氏(あしかが・たかうじ)が建武政権を離脱したことを受け「延元の乱」が勃発しました。
この足利軍を迎え討つため、西へと向かった南朝方の楠木正成(くすのき・まさしげ)が、長子の正行(まさつら)に遺訓を残して河内へ引き返らせた所でした。
楠公父子子別れの石像

台座の「滅私奉公」の題字は、公爵 近衛文麿の書です。
この足利軍を迎え討つため、西へと向かった南朝方の楠木正成は、ここ櫻井駅で嫡男の正行(まさつら)と別れたと太平記に記されています。

初めは「楠公父子子別れ」の銅像だったのですが
戦争への協力で、銅像がコンクリートになったのでした。

「櫻井驛跡公園」に移され
現在の像は平成16年に有志より寄贈されたものでした。

櫻井驛の名前は知っていましたが、馬を配置した役所とは知らず
櫻井驛が島本駅に名前が変わっただけだと思っていました。
歩いて来た櫻井驛跡公園が、西国街道に馬を配置した役所だと知り
今日のハイキングは、歴史クラブに参加しているようにも思えました。
JR島本駅

マンボウで不参加していたハイキングですが
参加された皆さんは、コロナを吹っ飛ばすほどのお元気でした。
行きたかった「背割堤のさくら」を見ることができて (^^♪
大阪にあった唯一の水無瀬神宮では、全国名水百選のお水も頂きました。
そして歴史に残る「馬」を知ることができた「櫻井驛跡公園」でした。