②「観音堂→法然上人袈裟掛け松→勧化所→鐘楼→御影堂」の
つづきです。
御影堂(みえどう) 12月3日(土)
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御影堂から入れないようなので、阿弥陀堂へ向かいます。
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御影堂の右横側を撮りました。
法然上人の「石棺」
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「嘉禄の法難」(法然上人は建暦二年(1212)80歳で入滅され、御遺骸は京都東山大谷の地に埋葬されていました。
広がる法然上人の教えに危機感を覚えた比叡山の僧たちによって、上人の墳墓の破却が企てられたとき、迫害者の手から法然上人の御遺骸を守るために、この石棺を太秦広隆寺の近くの藪に隠しておいたと伝えられています。
この石棺から一条の光明が放たれ、粟生の地を指し示したことから、法然上人の御遺骸をここで荼毘に付すことになりました。
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紅葉の見ごろには遅いと思ってましたが
こんなに澄んだ青空と紅葉を見ることが出来ました。(^^♪
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左横に大~きな木があります。
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その木は、保存樹木指定の「モミの木」でした。
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阿弥陀堂の右前に、かわいいお地蔵さまが
阿弥陀堂
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御影堂の北方、やや後ろ寄りに位置します。
堂内は写真禁止
寛政11年(1799)に再建されました。
ご本尊の阿弥陀如来立像は、恵心僧都の作と伝えられおり、法然上人によって開眼供養されました。
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阿弥陀堂から出てきたところです。
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御影堂とは渡り廊下で繋がっています。
釈迦堂(方丈)と信楽庭(しんぎょうてい)へつづきます。
つづきです。
御影堂(みえどう) 12月3日(土)


御影堂から入れないようなので、阿弥陀堂へ向かいます。

御影堂の右横側を撮りました。
法然上人の「石棺」

「嘉禄の法難」(法然上人は建暦二年(1212)80歳で入滅され、御遺骸は京都東山大谷の地に埋葬されていました。
広がる法然上人の教えに危機感を覚えた比叡山の僧たちによって、上人の墳墓の破却が企てられたとき、迫害者の手から法然上人の御遺骸を守るために、この石棺を太秦広隆寺の近くの藪に隠しておいたと伝えられています。
この石棺から一条の光明が放たれ、粟生の地を指し示したことから、法然上人の御遺骸をここで荼毘に付すことになりました。

紅葉の見ごろには遅いと思ってましたが
こんなに澄んだ青空と紅葉を見ることが出来ました。(^^♪

左横に大~きな木があります。

その木は、保存樹木指定の「モミの木」でした。

阿弥陀堂の右前に、かわいいお地蔵さまが
阿弥陀堂

御影堂の北方、やや後ろ寄りに位置します。
堂内は写真禁止
寛政11年(1799)に再建されました。
ご本尊の阿弥陀如来立像は、恵心僧都の作と伝えられおり、法然上人によって開眼供養されました。

阿弥陀堂から出てきたところです。

御影堂とは渡り廊下で繋がっています。
釈迦堂(方丈)と信楽庭(しんぎょうてい)へつづきます。