法隆寺の東院鐘楼を東に曲がると中宮寺の門が見えました。
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日本最古の尼寺・中宮寺は、聖徳太子が生母・穴穂部間人皇后
(あなほべはしひと こうごう)のために創建したといわれています。
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天平時代の文書に「聖徳太子創建七ヶ寺」のひとつとの記載が残る太子ゆかりの中宮寺は、平安、鎌倉、室町の時代の流れのなかで幾度かの荒廃と再興を経験し、1602(慶長7)年、慈覚院宮を初代門跡に迎えました。以来、門跡尼寺として今日に至っています。(門跡とは、皇族や貴族が住職に就いた場合の呼称で格式の高い特定のお寺を門跡寺院と言います。)
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中に入ると南側に入る門があります。(写真右横が東院伽藍です。)
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現在の中宮寺は、法隆寺東院伽藍の隣にありますが、創建当時は現在地より500メートルほど東に位置し、金堂、塔を持つ立派な伽藍だったそうです。
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本堂(昭和43年5月落慶。)
高松宮妃殿下の御発案で吉田五十八先生が設計されました。
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本堂は池の上に建っています。
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池といっても、水はありませんでしたが・・・
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国宝「本尊菩薩 半思惟像(飛鳥時代・7世紀)」
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な「国宝の半思惟像(はんかしゆいぞう)」は、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。
国宝「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」
日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、推古天皇三十年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、図像をつくって太子往生の姿をお偲びしたいと、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国を刺繍したものです。
(本堂に安置されているものはレプリカで、実物は奈良国立博物館に寄託 。)
写真は駄目なので ホームページ でご覧ください。

日本最古の尼寺・中宮寺は、聖徳太子が生母・穴穂部間人皇后
(あなほべはしひと こうごう)のために創建したといわれています。

天平時代の文書に「聖徳太子創建七ヶ寺」のひとつとの記載が残る太子ゆかりの中宮寺は、平安、鎌倉、室町の時代の流れのなかで幾度かの荒廃と再興を経験し、1602(慶長7)年、慈覚院宮を初代門跡に迎えました。以来、門跡尼寺として今日に至っています。(門跡とは、皇族や貴族が住職に就いた場合の呼称で格式の高い特定のお寺を門跡寺院と言います。)

中に入ると南側に入る門があります。(写真右横が東院伽藍です。)

現在の中宮寺は、法隆寺東院伽藍の隣にありますが、創建当時は現在地より500メートルほど東に位置し、金堂、塔を持つ立派な伽藍だったそうです。

本堂(昭和43年5月落慶。)
高松宮妃殿下の御発案で吉田五十八先生が設計されました。

本堂は池の上に建っています。

池といっても、水はありませんでしたが・・・
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国宝「本尊菩薩 半思惟像(飛鳥時代・7世紀)」
半跏の姿勢で左の足を垂れ、右の足を膝の上に置き、右手を曲げて、その指先きをほのかに頬に触れんばかりの優美な「国宝の半思惟像(はんかしゆいぞう)」は、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作のモナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。
国宝「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)」
日本最古の刺繍遺品として知られる「天寿国曼荼羅繍帳」は、推古天皇三十年(622)、聖徳太子の妃である橘大郎女が、太子薨去ののち、図像をつくって太子往生の姿をお偲びしたいと、宮中の采女に命じて、太子が往生なされている天寿国を刺繍したものです。
(本堂に安置されているものはレプリカで、実物は奈良国立博物館に寄託 。)
写真は駄目なので ホームページ でご覧ください。