西国街道沿いの「神足ふれあい町家」を出て少し歩くと・・・
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西国街道は「神足商店街」でした。
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西国街道は、商店街から見て右(北側)の道へと曲がっていきます。
私達は西国街道から離れ、左に曲がって次の目的地に向かいます。
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次の目的地は、神足神社の敷地内に空堀や土塁が遺構として残っている
「神足土塁(こうたりどるい)」です。
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「土塁」の説明板があります。
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あの階段から「土塁」に上がっていきます。
神足城は現在の神足神社の一角に築かれていました。
勝龍寺城の発掘調査によって神社付近に残されていた土塁と堀が
神足城時代まで遡る遺構であることが確認されています。
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左奥に神足神社があります。
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ボランティアの人から「横矢掛かりの虎口」などの説明があり
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右に見える土塁を歩いて「土橋」へ向かいます。
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後ろには
山崎の合戦(山崎の戦い)で知られる「天王山」が見えています。
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土塁を歩いて「土橋」の手前に来ました。
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土橋手前の「堀と土橋」の説明板
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そして、私はいま土橋の上から空堀を見ています。
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これは、神足神社へ向かう道から見た土塁です。
昨年は、歴史クラブで「北野天満宮でお土居」を見てきましたが
今年も歴史クラブで、長岡京市の「神足土塁」を見ることができました。
『現地案内板』より
神足城がいつ頃築城されたのかは不明だが、神足村の土豪神足氏の居館であったとされている。神足一帯は九条家の荘園となっており、神足氏はその管理をしていたようである。
永正元年(1504)九月、管領細川氏の内紛に巻き込まれた神足氏は神足城を失うこととなる。その後にこの地に入ったのは細川氏の重臣香西元能であったが、香西が現地で私腹を肥やすようになることで九条家との確執が強まるようになっていく。(『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣刊参照)
やがて神足城があった一帯は細川藤孝が勝龍寺城を拡張した際に飲み込まれて、いつしか消滅したそうですが、今も地名として残っていました。

西国街道は「神足商店街」でした。

西国街道は、商店街から見て右(北側)の道へと曲がっていきます。
私達は西国街道から離れ、左に曲がって次の目的地に向かいます。

次の目的地は、神足神社の敷地内に空堀や土塁が遺構として残っている
「神足土塁(こうたりどるい)」です。

「土塁」の説明板があります。

あの階段から「土塁」に上がっていきます。
神足城は現在の神足神社の一角に築かれていました。
勝龍寺城の発掘調査によって神社付近に残されていた土塁と堀が
神足城時代まで遡る遺構であることが確認されています。

左奥に神足神社があります。

ボランティアの人から「横矢掛かりの虎口」などの説明があり

右に見える土塁を歩いて「土橋」へ向かいます。

後ろには
山崎の合戦(山崎の戦い)で知られる「天王山」が見えています。

土塁を歩いて「土橋」の手前に来ました。

土橋手前の「堀と土橋」の説明板

そして、私はいま土橋の上から空堀を見ています。

これは、神足神社へ向かう道から見た土塁です。
昨年は、歴史クラブで「北野天満宮でお土居」を見てきましたが
今年も歴史クラブで、長岡京市の「神足土塁」を見ることができました。
『現地案内板』より
神足城がいつ頃築城されたのかは不明だが、神足村の土豪神足氏の居館であったとされている。神足一帯は九条家の荘園となっており、神足氏はその管理をしていたようである。
永正元年(1504)九月、管領細川氏の内紛に巻き込まれた神足氏は神足城を失うこととなる。その後にこの地に入ったのは細川氏の重臣香西元能であったが、香西が現地で私腹を肥やすようになることで九条家との確執が強まるようになっていく。(『京都乙訓・西岡の戦国時代と物集女城』文理閣刊参照)
やがて神足城があった一帯は細川藤孝が勝龍寺城を拡張した際に飲み込まれて、いつしか消滅したそうですが、今も地名として残っていました。