「甘露寺」を素通りしたあと、尼崎七福神めぐりの「常楽寺」の前にいます。
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振り返ると・・・
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常楽寺南側のお寺に「太閤記伝 秀吉由緒寺」
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このお寺は、甘露寺の隣にあったお寺で・・・
尼崎七福神めぐりのお寺ではないので
甘露寺と同じく素通りした「高徳寺」でした。
信長様が明智光秀に討たれたことを知り
豊臣秀吉が備中高松城から京へ駆け戻る途上、この高徳寺で
髪を剃り僧に化けて、明智方からの追手から逃れたとか・・・
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甘露寺(写真左側)から高徳寺の前を素通りした道です。
高徳寺の山門が写真左に見えています。
高徳寺は、政権争いに敗れた細川高国が切腹した場所でもありました。
高徳寺の「太閤 記伝」が知りたくて、尼崎市の資料を探しました。
【伝 説】 資料:尼崎市
秀吉と尼崎の関係は絵本大功記十段目の「尼崎の役」として知られています。
本尊は桧材の坐像で、かまくら時代の作とも、当寺創建ごろの明徳年間(1390~1394)の作ともいわれています。他に秀吉画像、朱印状、寺領目録などが残されています。
◎豊臣秀吉朱印状(とよとみひでよししゅいんじょう)
・法 量 29.9×48.3cm
・形 態 紙本墨書軸装
・年 代 天正18年10月8日
豊臣秀吉が有馬温泉での湯治の見舞いに贈られた松茸200本の礼を建部寿得軒(たけべじゅとくけん、寿徳・高光)ら3人に述べたものです。建部氏は豊臣秀吉の時代に尼崎郡代をつとめた武士で、はじめは近江六角氏、続いて織田氏に属し、本能寺の変後は秀吉に仕えて、若狭郡代を経て尼崎に入りました。
天正14年(1586)の島津攻めでは小西隆佐とともに兵糧や馬の調達・運送を担当しました。慶長12年(1607)に尼崎で没し、尼崎郡代は息子の光重に引き継がれました。秀吉は湯治のために度々有馬を訪れましたが、10月前後に出かけているのは、天正18年(1590)だけで、本文書はそのときに出されたものと推定されます。
◎太閤の味噌すり鉢
1582年、本能寺の変の時、豊臣秀吉は中国地方から大急ぎで軍勢を引き返します。急ぎすぎた秀吉は1人になってしまい、明智勢に襲われます。
そのとき秀吉が逃げ込んだのが当時大物にあった広徳寺。敵に囲まれた秀吉は、急いで髪をそり落とし、僧に化けます。そして寺の僧と一緒に台所で味噌をすり、負っ手の目を欺いたとされるすり鉢とすりこ木が今も広徳寺に残っています。
◎大物くずれ(だいもつくずれ)
・所在地:尼崎市東大物町1丁目4
・阪 神:「大物」西約150m
戦国時代、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立がありました。細川政元の養子高国と同じく養子の澄元・晴元父子が対立し尼崎の地でたびたび戦火を交えています。
享禄4年(1531)の両者決戦では、高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込む程の大敗となりました。追撃は激しく高国は大物の『広徳寺』で自刃しました。この戦いを「大物くづれの戦い」とよんで語り伝えられてきました。
私にとって、尼崎市は町工場の大気汚染による公害の悪いイメージしかなかった所ですが、かつては大阪を守護する親藩城下町であり、寺町を歩いて今までのイメージが払拭しました。

振り返ると・・・

常楽寺南側のお寺に「太閤記伝 秀吉由緒寺」

このお寺は、甘露寺の隣にあったお寺で・・・
尼崎七福神めぐりのお寺ではないので
甘露寺と同じく素通りした「高徳寺」でした。
信長様が明智光秀に討たれたことを知り
豊臣秀吉が備中高松城から京へ駆け戻る途上、この高徳寺で
髪を剃り僧に化けて、明智方からの追手から逃れたとか・・・

甘露寺(写真左側)から高徳寺の前を素通りした道です。
高徳寺の山門が写真左に見えています。
高徳寺は、政権争いに敗れた細川高国が切腹した場所でもありました。
高徳寺の「太閤 記伝」が知りたくて、尼崎市の資料を探しました。
【伝 説】 資料:尼崎市
秀吉と尼崎の関係は絵本大功記十段目の「尼崎の役」として知られています。
本尊は桧材の坐像で、かまくら時代の作とも、当寺創建ごろの明徳年間(1390~1394)の作ともいわれています。他に秀吉画像、朱印状、寺領目録などが残されています。
◎豊臣秀吉朱印状(とよとみひでよししゅいんじょう)
・法 量 29.9×48.3cm
・形 態 紙本墨書軸装
・年 代 天正18年10月8日
豊臣秀吉が有馬温泉での湯治の見舞いに贈られた松茸200本の礼を建部寿得軒(たけべじゅとくけん、寿徳・高光)ら3人に述べたものです。建部氏は豊臣秀吉の時代に尼崎郡代をつとめた武士で、はじめは近江六角氏、続いて織田氏に属し、本能寺の変後は秀吉に仕えて、若狭郡代を経て尼崎に入りました。
天正14年(1586)の島津攻めでは小西隆佐とともに兵糧や馬の調達・運送を担当しました。慶長12年(1607)に尼崎で没し、尼崎郡代は息子の光重に引き継がれました。秀吉は湯治のために度々有馬を訪れましたが、10月前後に出かけているのは、天正18年(1590)だけで、本文書はそのときに出されたものと推定されます。
◎太閤の味噌すり鉢
1582年、本能寺の変の時、豊臣秀吉は中国地方から大急ぎで軍勢を引き返します。急ぎすぎた秀吉は1人になってしまい、明智勢に襲われます。
そのとき秀吉が逃げ込んだのが当時大物にあった広徳寺。敵に囲まれた秀吉は、急いで髪をそり落とし、僧に化けます。そして寺の僧と一緒に台所で味噌をすり、負っ手の目を欺いたとされるすり鉢とすりこ木が今も広徳寺に残っています。
◎大物くずれ(だいもつくずれ)
・所在地:尼崎市東大物町1丁目4
・阪 神:「大物」西約150m
戦国時代、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立がありました。細川政元の養子高国と同じく養子の澄元・晴元父子が対立し尼崎の地でたびたび戦火を交えています。
享禄4年(1531)の両者決戦では、高国勢は総くずれになり、尼崎へ逃げ込む程の大敗となりました。追撃は激しく高国は大物の『広徳寺』で自刃しました。この戦いを「大物くづれの戦い」とよんで語り伝えられてきました。
私にとって、尼崎市は町工場の大気汚染による公害の悪いイメージしかなかった所ですが、かつては大阪を守護する親藩城下町であり、寺町を歩いて今までのイメージが払拭しました。